由緒
- 正式名称
- 榮壽稲荷神社(えいじゅいなりじんじゃ)
- ご祭神
- 宇迦之御魂神(うかのみたまのみこと)
- ご利益
- 子宝安産 商売繁昌 強運
江戸時代初期、京都伏見稲荷大社より分霊。
安産のご利益があり徳川家からも厚く信仰されました。
その後、足利藩の江戸屋敷内に入りました。
「五と十の日」に庶民にも参拝を許されていたことから次第に織物市が開かれるようになりました。
明治時代には縁日として姿を変え、戦後まで賑わいを見せました。
五と十にちなんで当時より「五十稲荷神社(ごとおいなりじんじゃ)」と親しまれるようになりました。
令和3年4月には新しく御神殿・社務所を竣工しました。
榮壽稻荷社は。俗稱五十稻荷にして。表神保町勸工塲南明館の傍にあり。同社に就きて。其の沿革を尋ぬるに。昔正德年間德川幕府の御用地たりし頃。山城國伏見稻荷の分靈を祀りしものにして。安產守護として。其の名甚だ高し。其の後戶田長門守屋敷となりしも。依然同家に於て。奉祀し居りしと。維新後。邸宅の毀たれて町家となるに及び。毎月五の日十の日を緣日となすに至り。俗称して五十稻荷といふ。本社に於て授くる白豆あり。兩斷して祈請せる呪文を書し。再び合して。舊形となし。
產前四十日頃服用するときは。安產の效驗著しとて。妊婦の祈請を乞ふ者多く 時に千葉、茨城等の近縣より來ることありと。例祭は。毎年四月十五日にして。當日は。社側に神樂殿を設け。神樂、手踊、茶番等を演し。附近には地口行燈等を掲げ雜沓を極む。毎月の緣日には。老幼子女の來りて詣する者多く。市中有數の緣日なり。境內の左右に。王垣を環らし前面に二個の鳥居を建つ。一は石造にして。他は木造なり。社に沿ふて社務所を設け祀宇を管理せり。
榮壽稲荷神社は俗称「五十稲荷神社」という。
絵にあるように(当時明治32年頃)、表神保町の勧工場である南明館と呼ばれる建物のそばに位置していた。
その歴史を辿ってみると、正徳時代に江戸幕府の御用地であった頃
山城國(現在の京都南部)の伏見稲荷大社の分霊を祀ったものであり、安産の守護として非常に名高かった。
その後、この地は戸田長門守の屋敷となったが、引き続き戸田家によって祭祀が行われていたという。
明治維新後、屋敷が取り壊されて町家となると、毎月五日と十日を縁日とするようになり、世間では「五十稲荷(ごとおいなり)」と呼ばれるようになった。
この神社では「白豆」を授与しています。それを二つに割り、祈願の言葉を書いてから再び合わせて元の形に戻す。これを出産予定日の四十日ほど前から服用すると安産の御利益が著しいといわれ、安産祈願を願う妊婦が多く参詣した。時には千葉県や茨城県など近県から訪れる者もあったという。
例祭は毎年四月十五日に行われる。当日は社殿の脇に神楽殿を設け、神楽や手踊り、茶番などを催した。また周辺には地口行灯(しゃれや語呂合わせを書いた行灯)が掲げられ、大変な賑わいとなった。
毎月の縁日にも、老人から子どもまで多くの人々が参詣し、市内でも有数の縁日として知られている。境内の左右には玉垣(たまがき)が巡らされ、正面には二基の鳥居が建てられていた。一つは石造、もう一つは木造である。
また社殿に沿って社務所が設けられ、社殿や境内の管理にあたっていた。